KATUOのこれまでの人生をまとめた | 《自己紹介》

日常

幼少期時代

千葉県房総半島に生まれる

1996年、千葉県の大自然に囲まれた地域で私は生まれました。海苔とヨーグルトを食べること、近くを走る電車を見るのが大好きな子だったそうです。あとプラレートとブロック遊びにハマっていたらしく、両親とプラレールで遊ぶことを強要するめんどくさい子だったとのこと。

保育園時代

恐竜オタク

保育園の頃に見たジュラシックパークの影響で、恐竜が大好きでした。恐竜図鑑をひたすらに読みふける毎日を過ごしていました。フィギュアなんかも大量に集めていましたね。恐竜学者になりたいと本気で思っていました。幕張メッセで開催されてた恐竜博に両親に連れて行ってもらって、ただただ興奮してたのを今でも覚えています。

小学校時代

釣りに熱中

小学校低学年の時は釣りに熱中し、ひたすら魚の習性に関する本や釣り雑誌を平日読みまくって、週末に実践のサイクルで回ってました。初めてカタクチイワシを釣った時の感動は今でも覚えています。特に千葉県勝浦市新官港とかは数えきれないくらい通いました。あと当時GREEが作っていたオンライン釣りゲーム「釣りスタ」にも熱中してました。友人や知らない人とチャットしながらゲームできるのが画期的で衝撃を受けました。(10年後このゲームを0から立ち上げた方の会社に新卒入社します)

アニメの影響で野球少年に

小学校高学年からはNHKアニメ「メジャー」をみて野球をやってみたい!と思ったのがきっかけで、地元の少年野球チームに加わり野球初年になりました。この頃の将来の夢はプロ野球選手と将来なりたい職業欄に書いていました。せっかくなので小学校の運動会の時の画像も貼っておきます。

中学校時代

中学校時代前半

実はこの中学時代が自分の進路の方向性を大きく変えた時期かなって今になって思います。部活は小学校の野球を続けて野球部に入部しました。中学1年生の頃は本気でプロ野球選手になりたいと思ってましたが、中学2年生中盤になってあれ?おれそもそも野球の才能ない…と気がつき、この先の進路どうしようと悩んでいました。とりあえず1年半後には高校受験があったので、3週間くらいこれまでの中学の勉強の復習をしました。その結果成績が55/70だった順位が10/70くらいに上がりました。この時生まれて初めて、人間はどんなに苦手、嫌なこともやればなんとかなるという感覚を手にしました。

中学校時代後半

この時期は学校に行くのが嫌な時期が一時期ありました。少し成績が良くなったせいか、今まで仲良くしていたヤンチャグループと一緒にいるのが急に嫌になって、心の何処かで、今まで一緒に遊んできた友達を敬遠するようになりました。そしてその気持ちが態度にもでるようになり、いままで一緒にいた友達と一気に疎遠になりました。

筆者
筆者

生まれて初めての友人関係の挫折の経験だったので、かなり辛かったのを今でも覚えています。 原因は自分なんですけどね。

現実逃避をするように、釣りに再度、夢中になり始めました。この時期に出会ったのがブログとYouTubeです。2011年の出来事です。週3〜4回自転車でダムや海に通い釣果をウエブリブログに載せました。すると徐々にアクセスが増えてきて、月最高5000PVまで行った記憶があります。釣り場でも「いつもブログ見てます!」と声をかけられることも多くなりました。そして中学の友人も仲間に交え、YouTubeにも釣り動画を出すようになりました。割と再生されて3000回再生された動画もありました。

ブログを書くようになった影響で、アフィリエイトという存在を知りました。そこで自分は釣具をブログで紹介して、そこで得た利益で新しい釣具を購入しようという作戦を企てましたが、銀行口座が必要であったり、未成年の登録が出来なかったりと当時の僕には参入障壁が高く断念。今考えると本当に勿体なかったと思います。

ともあれ自分のやりたいことにひたすら熱中していたので、あり得ないくらい毎日が充実していました。気がつけば自然と人間関係も気にならなくなり、自分のやりたいことをひたすらやって人生を楽しむことの大切さを知りました。それと同時にインターネットで情報配信することの楽しさを2011年に実感していました。

平沢ダム 平沢カップ第7戦
筆者
筆者

動画はほとんど削除してしまったのですが、奇跡的に当時アップロードした数十秒だけの動画が残ってました。この動画は何にも編集していないです。

高校受験は中学後半は特に勉強も特に熱心でなかった僕は家の近くの偏差値50くらいの高校に入学。合格祝いに生まれて初めての自分の携帯電話、Galaxyを買ってもらいました。実はガラゲーは1回も所有したことないんです。スマホでインターネットができることに感動しました。どこでもYouTube見れるし、なんなら投稿もできるなんて信じられませんでした。

高校時代

高校入学から部活引退まで

高校からは野球部ではなく、陸上部に入部しました。元々中長距離は学年でかなり得意な方だったのと、野球部よりも練習時間が短いという点が決め手でした。高校1年生、高校2年生は今まで大好きだった釣りやブログ、YouTube配信を、忘れて陸上部の練習に打ち込みました。先輩、同期、後輩に囲まれてめちゃくちゃ青春してましたね。長距離を始めるにあたって、卒業までにトラックで5000mで16分台出すのを目標に頑張りました。 当時、恩師である顧問の先生の方針で、練習メニューは自分たちで決めるというスタンスでした。(先生が長距離の指導の経験がなかった為) この目標を達成するために、練習方法などを試行錯誤しながら実践しました。この目標は後に味の素スタジアムで行われた記録会で達成され、達成できた時は人生で数少ない達成感で満たされました。この頃から自分で目標を立て、それに向かって練習をして、達成するというプロセスに快感を持つようになりました。

しかし気持ち良くは引退できませんでした。今でも忘れないのですが、最後の総体近くになると調子が全く上がらず、結果メンタルブレイクして惨敗。確か自己ワーストタイムで組最下位という最後に非常に悔しい思いして引退しました。

筆者
筆者

自分って意外とプレッシャーに弱いんです。この時期から自覚するようになりました。今ではかなり改善されましたが。

高校で出会った恩師

丁度、このあたりから、進路についてきちんと考えるようになりました。高校3年生になるまではどっかの大学の陸上部に入って競技を続けるのもありかなとか思っていましたが、最後まで部活を続けてとてもじゃないけど自分の競技レベルで大学でスポーツ1本で頑張るのは厳しいというのは気付けたので無難に大学進学を考えました。指定校推薦は成績が悪いので使えなかったので受験をするという選択肢を取ることにしました。ちなみにクラスは何故か理系クラスでした。当時理系は就職には困らないという情報がやたら出回っていたのでそれに便乗したんだと思います。まず初めに自宅から2時間離れた千葉駅の近くの河合塾で模試を受験し自分の実力を測ると返ってきた成績は絶望。理系3科目で平均偏差値38でした。只々びっくりしたのと、ショックでした。大学進学なんて考えてはいけないのかと本気で思いました。

ちなみにここで私に一声かけてくれたのが、高校1年生から担任も顧問も同じだった先生(恩師)でした。部活動でも非常に面倒を見てくれた先生で、引退後も進路について親身になって一緒に考えてくれました。Fラン大学にも入学できるかわからない自分の背中を押してくれました。そのおかげで挑戦するという気持ちが芽生えました。

(4年後再開した時の写真)

大学受験をするにあたって志望校を設定すると思いますが、当時知ってる大学もかなり少なかった為、都心にあって、お洒落な大学、青山学院大学を第1志望にしました。半年間やり方も特にわからなかったのですがひたすら勉強しました。

筆者
筆者

ある程度レベルの高い高校に通っていた方は理系なのになぜMARCH理系を第1志望にしているのか謎でしょうが、底辺高にいるとMARCH=神様みたいな感覚になってしまうです。

現役受験の結果

元々の偏差値が低かったために半年間で偏差値は10程度あがり、40後半くらいになりました。そしてそのまま突入しましたが第一志望群のMARCHレベル(明治、青学)は不合格。半ば覚悟していた浪人が段々と現実味を帯びてきました。しかしここで思わぬ合格通知が入りました。日本大学の生産工学部という学部に合格しました。勉強を始めた当初のレベルからするとびっくりの偉業でしたが、MARCHに入ると心から決めていた自分にとってはもはや、行く気には慣れませんでした。一部の人からは何で受かってる大学あるのに浪人するの?と言われましたが、特に気にしませんでした。このあたりから周囲の人々に流れないというマインドが芽生えはじめました。

浪人時代

成績爆伸び

予備校は通ったほうが良いとの先生からのアドバイスがあったので家から2時間の場所にある津田沼校に通うことにしました。流石に毎日往復4時間はきついので母親の父の家から通うことにしました。

思いの外成績は伸び、4〜12月の間で成績は右肩上がりでした。特に物理とかは参考偏差値68ぐらいまで達したこともありました。

受験期直前にメンタル崩壊

練習であったセンターも無事に終わり、あとは受験をするだけという状態だったのですが、ここで突然落ちた時の不安からかメンタルブレイクしました。理由は今でもいまいちわかりませんが、落ちたらどうなるんだ?という不安が頭を駆け巡るようになり、1人になると何故か涙がでてきました。1年間勉強しかしてなかったので精神的におかしくなっていたのかもしれないっす。その状態で、受験に突入しました。結果は挑戦校であった上智、常時A判定青学、中央に落ち、首の皮1枚でギリギリ法政に合格しました。合格通知を受け取った時は、1年ぶりに生きた心地がしました。

大学時代

大学前半はサークル・アルバイト

進路が決まってから、少し経って初めての引っ越しをしました。初めは大学の最寄駅の近くに家を借りて、ワクワクの毎日。新居から渋谷、表参道、新宿に電車で通える環境が衝撃で、毎日お出かけする度に東京凄え…って感動してました。これが東京での一人暮らしか!と人生の目標の一部を達成しました。一番初めの家は大学の周辺、JR中央線の東小金井に家を借りました。自分がイメージしてた「THE 東京の1人暮らし」が始まりました。

4月に行われた武道館での入学式の後、大学生活がスタートしました。この時期の自分は元々人と喋るのが好きだったのにも関わらず、浪人時代マジで人と会話しなかったので、割とコミ障で結構苦労しました。ともあれサークルは絶対入ろうと思っていたので、陸上サークルに入りました。この入った陸上サークルがとても楽しくて、週3、多い時は週4とかで活動してました。競技レベルとしてはめっちゃ雑魚でしたが、高校時代に憧れてた(法政の陸上部は競合なので縁のゆかりもない)法政のユニフォームのレプリカも着用できたのが非常に良かったです。

大学2年秋から長期インターンを始める

遊ぶ金を確保する度にアルバイトも割とやりました。コンビニバイト、塾講師、家庭教師などなど。1年ちょっと働いて気づいたのは、どのアルバイトも時間をお金に変換しているだけという部分でした。この点に不満をもっていた自分は何かもっとスキルがついて、お金を貰えるアルバイトをしたいと思うようになりました。

とある日インターネット上で学生の長期アルバイトインターンの広告が目に止まりました。その内容はプログラマーでした。プログラミングといえば大学1年生の時にC言語を履修。訳分からなくて途中から授業を聞かなくなり、単位を落としました。なので向いてないかなと思ったのですが、受験時代の反骨精神からかチャレンジする気になり、片っ端から面接を受けました。その中で1つの会社から合格をいただき、エンジニア人生がスタート。オフィスが表参道にあった為、田舎者の自分にとっては夢のような生活が始まりました。

初めは「Progate」と呼ばれる無料オンラインプログラミング講座をひたすらやりました。書けば書くほど、あれほどC言語をやったときに、アレルギーだったプログラミングが楽しくなっていったのを感じましたね。ここでも苦手を克服した時の感覚を味わって、達成感を感じました。そこのインターンでは業務でWordPressの簡単なテーマを自作したり、業務効率をあげるスクリプトを書いたりしてました。

アイルランドに短期留学

大学の任意の授業でアイルランドのリムリック国立大学に春休み短期留学をできるものがあったので、せっかくの機会だと思い利用しました。

ホームステイで現地の家族と一緒に過ごしました。初めての海外で生活することで、自分の考えに何か大きな変化があるとおもっていたのですが割とそうでもなく、そんなに変わらないかなって思いました。というか日本ってインフラ、食事などを含めて非常に生活しやすい国であることを実感しました。とはいえ様々な人種の方々と交流したことや、一緒に過ごしたことで海外で働いたりするってこんな感じか〜という具体的なイメージが湧きました。あといつかヨーロッパでエンジニアとして働くのも一度はやってみたいなと思いました。

AIスタートアップでインターン開始

大学3年生になってからはWantedly経由で渋谷にあるAIスタートアップでの長期インターンを始めました。モダンな技術に触れることができ、とても勉強になりました。またIT業界で長年働いていた社会人との接点も増え、IT業界の情報を初め、様々な情報がたくさん入ってくるようになりました。

初めは大衆化された一般就活生マインド

大学3年生の夏頃から就職活動を少しずつですが開始しました。初めは就活生の王道といっても良い「コンサル・Sler」を考えていました。というのも

  • 大手に行くこと
  • 高年収
  • IT

という軸しかなかったので、この辺りしか浮かびませんでした。とはいえ業務としてソフトウエアの開発業務をやりたいと考えていたので、それも考慮しながらコンサル・Slerのインターンに夏から秋にかけて10社くらい参加しました。こうしたインターンに参加する毎に気がついた点はこの業界を志望する学生は

  • プログラミングに本質的に好きでない
  • プログラミングは下請け業務、底辺の仕事

マインドを強く持ってる人が多くいることでした。また超日系大手の課題解決のグループディスカッション的なインターンに参加した時、エンジニアの業務はSlerではできないと確信し、この業界へ進むことは辞めました。今振り返るとこれが自分にとってベストな選択でした。

Web業界が自分に一番マッチした

次に目をつけたのが、いままで少しアウトローかなと思っていた Web 業界でした。当初はやはり大手思考が抜けきっていなかったため、Web 業界の大手のどっか1つに受かればいいかなというスタンスでしたが、さらにWeb業界で就職活動を進めていくと別に大手企業じゃなくても良くないか?と思うようになりました。というか「そもそも大手とは」「なんで大手じゃないといけないのか」と言う点を考えるようになり、たどり着いた結論としては会社の規模とかは関係なく

  • 個人の開発スキルを伸ばせる
  • 楽しくストレスフリーで働ける
  • やりがいをもって働ける
  • 給料がそれなりに高い

を満たせる会社に入りたいと思うようになりました。ちょうどその辺りでサポーターズ のイベントで出会った六本木にある大型ベンチャーに内定を貰い、新卒入社することを3年の冬に決意しました。会社の社長、役員の雰囲気、僕をスカウトしてくれたエンジニアの先輩の会社で働きたい、背中を追っかけていきたいと素直に思ったのが決めてでした。内定をもらったのが非常に早かったため、他の会社なども気になるようになりましたが、そこで内定インターンをする内に、現状、自分にとって一番の環境だと思い、この会社に2020年4月から新卒入社する予定です。

まとめ:自己紹介

といったような人生を送ってきました。町の人口が8000人程しかいないところに18年間も住んでいたので、東京にきて世界が変わったかのように日々刺激を受けています。とはいえ自分のベースは地元で培ってきたものですから、変に東京かぶれすることなく、日々精神して生きていこうと思ってます。わざわざ自分の自己紹介を読んでくれた方、本当にありがとうございます。Twitterもやっているのでよかったらフォローしてください。

筆者
筆者

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